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OB INTERVIEW
Bプレミアでも、強い大阪で
ー桶谷大氏インタビュー



 
──2015年のオフにエヴェッサからヘッドコーチ(HC)就任のオファーを受けて、どういう気持ちでしたか

2016年からBリーグが始まることになっていて、当時僕がいた岩手ビッグブルズはB1に入れないと聞いていました。そのときにB1参入が決まっていた、大阪さんからオファーをいただいたんです。B1でコーチをしたいと思っていたので、それは大きな要素でしたね。あと当時の大阪さんは負け越したシーズンが続いたり、プレーオフに出ても初戦で敗退したりしていたんですよね。話し合いのなかで「エヴェッサを立て直すのに、力を貸してほしい」という言葉も響きました。僕は、立て直しが得意なコーチですし(笑)。

 
──それまでは最初にHCを務められた大分ヒートデビルズ時代から、エヴェッサは対戦相手として関わってこられました。エヴェッサも時期によってチーム状況などに違いはありましたが、全体的に大阪エヴェッサというチームに対して、外から見てどういう印象を持たれていましたか

bjリーグ時代から、めちゃくちゃ強豪のイメージですね。大分の次にHCを務めた琉球ゴールデンキングスとも、ライバル関係でしたから。僕が岩手に行ったくらいからちょっと成績が落ちてきていたので、そのあたりは気になっていましたね。

 
──実際にチームのなかに入られて、第一印象はいかがでしたか

若いチームだなという印象でしたね。僕が入る少し前も相馬(卓弥)や畠山俊樹を中心にやっていたシーズンがありましたし。でも俊樹は僕と入れ替わりで退団していて、並里成が加入したんですよね。

 
──エヴェッサでのHCが1シーズン目の2015-16シーズンは、bjリーグの最終年でした。周囲からは、優勝を求められたのではないですか

そういう期待は当然、あったと思います。でも優勝というより、そもそも勝率が5割に届かなかったりと、成績が振るわないシーズンが続いていましたから。僕はまずはもう一度、強豪という立ち位置に戻すことを考えていました。そのためには、チームにちゃんとしたカルチャーを作らないといけない。それを、いちばんに思っていましたね。実際はbjリーグの最終シーズンで優勝はできませんでしたが、シーズン通算で6割くらいは勝ちました。プレーオフをホームで開催できませんでしたが、アウェーで島根スサノオマジックに勝って、カンファレンス・セミファイナルで沖縄に行きましたから。次の年に繋げるためには、悪くはなかったと思っています。

 
──あのシーズンは中盤あたりまでは、外国籍選手がなかなかハマらなかったですね

そうですね。中心選手と期待していたオルー(・アシャオル)が、何度もケガをしたりしましたね。その前にはカリフォルニア大出身のセンター、マーカリー・サンダース・フリソンが開幕戦でケガをしてダメになりました。そのあとにマイケル・シングルタリーと短期契約をしたのを経て、もっといいビッグマンがほしくて、年が明けた2月にディアンジェロ・ハミルトンを獲得したんです。そのあたりから最後にかけては、ディフェンスがいい感じになりました。ただオルーがケガがちだったので、外国籍選手のローテーションができず、ずっと(ローレンス・)ブラックレッジとハミルトンのふたりでやらないといけなかった。外国籍選手が最初から上手くハマってたら、もっといいシーズンになったかなと思います。難しい状況も少なくなかったですが、それでも日本人選手も含めて、みんなで頑張ったシーズンでしたね。

 
──3人目の外国籍選手がハミルトンに落ち着いてからは、チームは安定しましたよね

そうそう。オルーがずっと、ヒザを痛がっていましたから。あれがなくて3人でローテーションができていたら、最後のキングス戦に勝てる可能性はあったと、今も思っています。僕らが外国籍選手のローテーションができなかったから、キングスは走るぞとなって、僕らには厳しい戦いになってしまった。

 
──終盤にかけてチームが固まってきて、プレーオフ初戦にアウェーで島根に勝った。あそこで、あのシーズンのチームの力が証明できましたよね

そうですね。ディフェンスがやれるようになって、我慢強くなくなってきていましたね。ディフェンスがやれていないと、得点が獲れていないときに崩れてしまうことがありましたから。ハミルトンが入ってからは、ディフェンスが良くなった。得点は、あんまりでしたが(苦笑)。そこまで得点が獲れる選手がいなかったのでシンドかったけど、それでも日本人選手が頑張ってスコアしたり、プレーをクリエイトするようになっていきました。カルチャー作りの基盤としてディフェンスを安定させることを考えていたので、次に繋がるようなシーズンにはなっていたと思っています。

 
──島根に勝って、プレーオフのカンファレンス・セミファイナルはレギュラーシーズン最終戦と同じく、再び沖縄に飛びました。

試合は結局、マクられたんですよね。

 
──そうですね。第1戦は後半から防戦にまわる展開で敗れて、第2戦は第3Q終了時にリードしながら、逆転負けを喫しました。

ホームでのキングスは勢いに乗せたらアカンけど、乗せてしまいましたね。大阪を取り巻く環境は優勝しないといけないみたいな雰囲気がありましたが、優勝はそんなに簡単にできることではないですから。天日(謙作)さんのときに3連覇したから、余計にそうだったんでしょうね。でも僕は、そこに至るプロセスをみんなで大事にしてやっていかないと、優勝争いをし続けられないんじゃないかと感じていました。

 
──あのときのプレーオフは、チームが沖縄のブースターに気圧されたようなところはありましたか

今の僕の立場で言うのもどうかと思いますが、沖縄のホームでプレーオフをやるもんじゃないと思いますよ(笑)。僕はbjリーグ時代にも沖縄でHCをしていたので、余計にそう感じます。僕が沖縄でHCをしてから、沖縄開催のプレーオフやチャンピオンシップ(CS)は1回しか負けていないですから。ホームで実力以上のものを引き出すのは間違いなくあって、アウェーでもホームでも、沖縄でプレーオフやCSをやるとそれを感じますね。会場が揺れているような感覚になって、なんか、わからんようになるというか……。選手はみんな混乱していないと思うのですが、飲み込まれるんですよ、あの空気感に。

 
──そして桶谷さんの2シーズン目の2016年に、Bリーグが開幕します。あのときに、新しい日本のバスケが始まるんだみたいなものを感じられましたか

当時の大阪にも、NBLのチームに所属していた選手が入ってきました。Bリーグでいっしょになって、みんなが同じリーグであった方がいいんだなとすごく感じていました。

 
──とはいえBリーグに変わった瞬間に、大きくいろんなことが変わったというよりも、続けていくうちに変化が感じられてきたのではないですか

本当に、そうなんですよ。1年目はBリーグが、どういうふうに発展していくのか。正直、まだわからなかった。ただ、bjリーグやNBLにいたチームがBリーグで切磋琢磨していくことで、日本のバスケットのレベルが上がったんじゃないかなと、やりながら感じていましたね。

 
──Bリーグの初年度、とくにシーズンの序盤は旧NBL勢との対戦は苦労しましたよね

そうですね。旧bjリーグのチームは、Bリーグで簡単に勝てなくなりました。bjリーグで強豪と言われていたチームですら、当初は苦労していましたし。それでも僕らは、それなりにいい位置にいました。CS出られるかどうかのギリギリまで行けたのは、1年目にしてはみんな頑張ったと思います。

 
──同じ西地区の名古屋ダイヤモンドドルフィンズにはシーズン通算で勝ち越して、NBL時代から強豪のシーホース三河には大きく負け越してしまいました

三河がいちばん強いころで、8試合やって1勝7敗でしたね。

 
──名古屋DのようにNBLで中位くらいにいたチームとは、互角以上にやれる手応えはあったのではないですか

そうですね。ハマっているときは、勝負できるなという手応えはありました。ただ三河さんもそうですし、初年度に優勝する栃木(現宇都宮ブレックス)さんとかとやると結構、差を感じるというか。そういうことは、よくありましたね。

 
──今まで対戦がなかったチームとの対戦が増えて、シーズンの真ん中あたりまでは手探りなところもあったのではないですか

bjリーグのスタイルとは、また違いますからね。bjリーグは試合に出せる外国人選手が多かったけど、Bリーグになって少なくなり、日本人選手を多く使わないといけなくなった。だから日本人選手の使い方が、すごく重要だなと感じていましたね。日本人選手がある程度は得点が獲れたり、相手に対して脅威にならないと、チームとして得点が獲れないと感じていました。

 
──今までとは、戦い方のベースが変わったわけですよね

僕はもう少しボールムーヴメントを多くしたかったけど、それをやってもアドバンテージがなかなか取れなくて。それよりもアドバンテージを持っている外国人選手のところに入れたり、ポイントガードの木下(博之)がビッグマンを使うとか武器が限られていました。だから若手の成長を、すごく待っていましたね。(橋本)拓哉らの、成長待ちでした。それは当時の若手や日本人選手が悪いのではなく、それくらい周りの選手のレベルが上がっていたということなんです。

 
──中盤戦までは西地区で真ん中より下くらいの順位だったのが、後半戦になって上がってきました

シーズンを戦ううちに、それなりに戦い方が確立されてきていましたね

 
──チームも選手個々も、Bリーグにアジャストしてきたみたいなところはありましたか

ありましたね。日本人選手だけではなく、外国人選手もそうでした。(ジョシュ・)ハレルソンも、エックス(エグゼビア・ギブソン)も悪くなかったです。でも劉瑾(リュウ・ジン)があまり試合に絡めなかったので、外国籍選手はふたりでやっている状態でした。途中から(リチャード・)ロビーが入ってきて、少しは選手層が厚くはなりましたね。

 
──このシーズンも、最後は沖縄にやられてしまいました。最後の直接対決で1勝すればCS進出が決まったのに……

そうですね。第1戦は途中まで、20点差くらいで勝っていたのかな。

 
──第3Qまで16点差で勝っていましたが第4Qで28点獲られ、オーバータイムにもつれ込んだ末に敗戦。翌日は終始リードされる展開で、敗れてしまいました

1戦目を取っていたら、そのまま行っていたかなと思うんです。あのときの沖縄は、僕らに勝てると思っていなかったようですし。

 
──5勝3敗と、レギュラーシーズンの対戦成績も良かったですしね

そうですよね。30点差くらいで、勝ったゲームもありましたから(11月5日のシーズン最初の対戦は、96-57の39点差で勝利)。沖縄はあの1戦目を勝って「イケる」と、自信がついたみたいで。僕らは逆に、追いつめられたみたいになってしまった。沖縄には勝てるやろという雰囲気でしたから、ちょっと面食らったところがありましたね。あとひとつ勝てばというところでしたが、最後に沖縄戦を残しててたのが勝負のアヤといえば、そうなのかもしれません。あのときの僕らにバスケの神様が「まだCSに行ったらダメだ」と、そうしたのかもしれませんね(笑)。

 
──最後のシーズンになる3季目は、とにかく外国籍選手に苦労しましたね

僕だけではなく、ブースターさんもそうですし、みんなキツきつかったと思います。ロスター全員が揃ってゲームができることが、ほとんどなかったですから。つねに、だれかがいない。でもそのなかで若い日本人選手は踏ん張りながら、頑張ってくれていましたね。

 
──チームの柱と期待していたトレント・プレイステッドが、開幕を前にアキレス腱を断裂してその後に退団するなど、外国籍選手は誤算続きでした

プレイステッドは前のシーズンにアルバルク東京でプレーしていたこともあって、期待していたのですが、開幕前にアキレス腱を断裂してしまって。あとグレッグ・スミスにも期待していましたが、なかなかコンディションが整わなかったりで難しかった。外国籍選手のところは、かなり悩まされましたね。

 
──シーズン途中から降格プレーオフがチラつくような状況になり、HCとしてもタフな状況だったのではないですか

まずは目の前の現状を、乗り越えないといけない。それが、ありましたからね。そんな状況でも選手たちはずっと前を向いてプレーし続けてくれていて、僕はそれがありがたかった。そこで空中分解するのではなく、選手たちはみんな同じ方向を向いてプレーしていたんです。僕はそれに、本当に頭が上がらなかったですね。

 
──熊谷(尚也)、藤高(宗一郎)らが加わって、日本人選手のベースも上がっていたところだったので、余計に外国人がハマらなかったのがもったいなかった

合田(怜)もあのシーズンはいい感じで伸びてきていたし、拓哉もそう。木下がコンディションの整わない時期がありましたが、ずっと試合に出ていたら、また違ったと思います。そういう状況で合田や拓哉がなんとか頑張って、成長していった。日本人選手は本当に、いい感じでやっていましたね。

 
──シーズン途中でギブソン呼び戻して、降格プレーオフは避けた

そうですね。あのときはもうひとり、途中でキース・ベンソンも獲得したんですよね。彼のミドルレンジも良かった。ディフェンスもそこそこできていましたし。そこから、ちょっと盛り返せましたよね。

 
──あれだけのシーズンを乗り越えたのは、HCとして経験値を積むことにもなったんのではないですか

そうですね。僕のキャリアで、あそこまで負けるシーズンはありませんでしたから。大分のときくらいですね。負けながらでも、どうしていくべきか。いかにチームをまとめていくかは、すごく勉強になりました。期待に応えられなくて申し訳ないと思う反面、自分自身がタフになれましたね。自分が成長できる時期だったなと思います。

 
──bjリーグからBリーグの過渡期も経験されて、エヴェッサのヘッドコーチ務められた3シーズンを振り返ると、どんな思いがありますか

Bリーグでちゃんとした結果が出せなかったのはすごく悔しいし、申し訳なかったと思っています。だけど、僕の3シーズン目。あれほど勝てない時期でも、チームのみんなが同じ方向を向いてバスケットができたのは、僕にとってすごくいい思い出です。ずっと下を向いてなんとなくプレーしているのではなく、なんとかやってやろう。そういう、強い意思を持ったチームだったことですね。

 
──大阪の3シーズンでいちばん印象に残っているのは、どんなことですか

いろいろとありますが、いちばんはやっぱり、栃木戦で舞洲アリーナに8000人近くのお客さんが入った試合かな(2017年2月5日のvs栃木戦の来場者数は7524人)。あのときの舞洲アリーナも、ホンマに揺れていましたね。Bリーグになって、日本でこういう環境でバスケットができるようになってきたのかと、身震いしていました。僕のなかには自分がコーチをしている以上は、日本のバスケットを発展させていきたい思いがあります。舞洲アリーナに当時のBリーグ最多の観客が来られたあの栃木戦は、自分にとっても、日本のバスケにとってもひとつの転機なったのではないかと思っています。

 
──Bリーグが始まった当初は、bjリーグでやっていた意地みたいなものはありましたか

ありましたね、やっぱり。口ではあまり言っていませんでしたが、旧NBL勢には絶対に負けたくない気持ちは正直、めちゃくちゃありましたね。bjリーグでやってきた自分たちを、証明したい思いがありました。キングスとA東京のリーグ開幕で、「エリートvs雑草」と打ち出されたじゃないですか。あれには、僕らも雑草と言われている気持ちになっていましたし。だからこそ、エリートと言われてる人たちに絶対に勝ってやる。自分たちを証明してやるという気持ちは、ずっと持っていました。

 
──その雑草が、やがてBリーグでチャンピオンになるのだから痛快ですよね

でも大阪さんにも、そうなれる可能性は充分にあると思っているんです。今シーズンは藤田(弘輝)くんがHCになって、チームは良くなってきている。今季から今後に向けての土台作りができていて、これから2~3年でいいものができる可能性があるなと感じています。キングスが勝てたのは、ずっといいわけではなくても、優勝争いをし続けているから。それをやり続けられる、球団作りなんですよね。選手が入れ替わったりと、チームは変わりますから。大阪さんはたとえ今季CSに行けなかったとしても、「CSに行けてないやん」で終わるのか。あるいは、今のやり方を続けていけば強いチーム、球団になるよねとなるかだと思います。僕が偉そうに言って、恐縮ですが(笑)。

 
──現在は対戦相手のHCの立場なので言いにくいかもしれませんが、3シーズン指揮を執ったエヴェッサには、将来的にどうなっていってもらいたいと考えますか

bjリーグ時代からからずっと強豪チームだった大阪エヴェッサなので、Bリーグでも、次のBプレミアになっても強豪といわれるようなチームになっていってほしい。Bプレミアでは関西の雄として、キングスといっしょにBプレミアを盛り上げていきたいですね。

 
──bjリーグ時代からの良きライバル関係を、今後も築き上げていきたいですね

それは僕も大阪のHCのころから、いつも思っていたことなんです。僕が行ったときはちょっと弱くなってしまっていましたが、大阪はつねにキングスとライバルでいないといけないと思っていました。強い大阪。それは多くの人が、待ち望んでいることだと思います。

(文/カワサキマサシ)