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「若い勢いとエネルギーがあった」
上原光徳初代社長インタビュー



 

──当初、bjリーグに参加する大阪のチームはエヴェッサではなく、大阪ディノニクスの予定でしたよね


そうですね。そのころ僕はヒューマンホールディングスの子会社であるヒューマンアカデミーに所属していて、教育関係の仕事をやっていました。時代が変化するとき、今ならAIやITなど新しい産業ができると、当然人材が必要になります。人材が必要ということは、それを育てる教育が必要。そういう時代背景のなかで、商品開発をしていました。バスケットボールのプロができるということは、2004年の秋に聞きました。当時につながりがあった庭野孝夫先生がバスケットボール関係の人で、「先生、バスケットボールのプロができるって知ってますか」と聞いたら、「知ってるもなにも、ワシの教え子が理事やってるわ」と。それで紹介してもらえますかと聞いたら、いいよということで2004年の12月に阿部達也(元日本プロバスケットボールリーグ取締役、元大阪エヴェッサGM)さんと会ったんです。

 

──それがbjリーグとの、最初の接点だったのですね


はい。そのときに阿部さんからbjリーグの運営会社の会社案内や、パンフレットなどをもらいました。でも僕は本当は、学校作りのための情報がほしかったんです。ちなみにそれは、後にヒューマンバスケットボールカレッジができて形になりました。そうこうして情報を集めていたところ、翌2025年の1月に大阪でプロのバスケットボールを盛り上げる会があるということで、僕も呼ばれたんです。

 

──なぜ、上原さんが呼ばれたのですか


僕もなぜ呼ばれているのかなと思ったのですが、そのときは阿部さんともつながっていて、学校作りをやっているので情報収集にと思って行ったんです。会自体は大阪のプロバスケを盛り上げようで終わったのですが、次は2月にトライアウトがあるのでそれにも来ませんかと誘われました。

 

──当時の上原さんの立場では、誘われた意図を図りかねますよね


そうなんですよ。それでもなぜかなと思いながらトライアウトに行ったら、当時のbjリーグの会長さんに会場の裏に呼ばれて「上原さん、学校作りをやっているみたいだね。それもいいけど、プロチームを経営しませんか」と言われたんです。僕の考えにはなかったので答えは返せませんでしたが、ヒューマンホールディングスの佐藤耕一会長がバスケットボールが好きだということがあったので、「持ち帰って会長に話してみます」と言ってその場を収めました。それで社に戻ってから、会長にこんな話がありますけどと伝えたところ「それは儲かるのか」と言われまして。「僕も経験はないですが、儲からないんじゃないですか」と言ったら「断っとけ」と。それで断ったんです。

 

──この話はそこで、終わらなかった


阿部さんから「断るのは、いつでもできます。一度でいいから新潟アルビレックスB.B.というチームを見にきてほしい。プロの経営、運営をやっていますから」と言われまして。それを見るのは学校作りにも役立つと思ったので、試合会場の朱鷺メッセに行きました。そこで初めて新潟の試合を見て、びっくりしたんです。こんなスポーツが、今の日本にあるんやと思って。これはすごいと、感動したんですよ。

 

──新潟は当時、国内のトップリーグであり、実業団チームで構成されていたJBLに唯一、プロチームとして入っていました


老若男女がバルーンスティックを掲げて応援していて、すごく盛り上がっている。これは面白いなと感じて会長に「めっちゃ面白いですよ。一度、見に行ってほしいです」と言ったら「行くわ」と。それで試合を見た会長も「おもろいな」とハマって、「企画しろ」となったんです。僕らが見に行ったその日が、新潟のJBLとしての最後の試合だったんです。このときに行っていなかったら、エヴェッサはできていなかったと思います。

 

──会長に企画を命じられとはいえ、まったくノウハウがない状態でしたよね


なので当時、新潟の社長だった中野秀光さんのところにすぐ飛んでいって、見よう見まねで事業計画と予算計画を上書きして作って、3月の取締役会に出したんです。そこでは役員の方々から同じように、「そんな儲からないビジネスをやって、株主にどう説明するんだ」と厳しく言われました。そこまで言われるなら、もういいかなと思っていたら、佐藤会長が「ちょっと待て。儲かれへんとかなんとか言っているけど、誰が決めたんや。やってみな、わからへんやないか!」と、ガーンと一言。オーナーがそう言ったもので、全部が引っ繰り返って承認されたんです。「会長も以前に儲かれへんから辞めとけ」と言っていたのにな……という思いは僕のなかにありましたけど、それは表に出しませんでした(笑)。それでチームを作って、bjリーグに参入することが決まったんです。

 

──上原さんとしてはそこまでやって、あとは別の人がと考えていたのでは?


そうですね。僕はヒューマンアカデミーで、西日本の統括をやっていましたから。プロバスケットボールチーム用の企画書を作って、あとはだれかがやると思っていました。でもある日、会長に呼ばれて行ったら「お前が言い出しっぺやから、お前が社長やるんや」と言われたんです。「学校作りとかは、どうしたらいいんですか」と聞いたら、「磯村(英孝)にやらせろ」と。

 

──磯村さんは2024年3月より、運営会社の社長に二度目の就任をされた人物ですね


磯村さんは僕がヒューマンに入社したときの上司で、長い付き合いなんです。僕は2005年4月1日に辞令が出て、心斎橋のビルの3階のオフィスに自分が作った事業計画書を持っていって、どうしたものかと考えていました。チームを作ることになったのはいいけど、バスケットのことは知らないし、プロチームの経営をやったこともない。11月4日に開幕するけど、どうしたらいいんやみたいな状態でした。

 

──当時は、ほかにスタッフはいなかったのですか


そのころは僕ひとりでやっていて、原田茂(当時大阪府バスケットボール協会会長)先生にスタッフを紹介してもらい、比嘉悟先生に天日(謙作、初代ヘッドコーチ)さんを紹介してもらいました。天日さんは、比嘉先生が羽曳野高校バスケ部の監督だったころの選手だったんです。そうやってみなさんの協力を得て、スタートしました。

 

──なにも形がないところからの始まりでした


今は知り尽くしているから、同じ状況でやるかといわれたら多分やらないですけど(笑)、あのころはなにも知らなかったのでね。こんなすごいことが実現できたらいいなという、思いだけでやっていましたね。

 

──のちに3連覇に導く天日ヘッドコーチ(HC)との最初の出会いは、どんな様子でしたか


天日さんと面談をして「比嘉先生からご紹介をいただいていますが、どうされますか」と訊ねたら「やります」と即答でした。当時はパナソニックの広報総務部かなにかで、部長の名刺を持っておられました。「せっかくパナソニックにいるのに、会社を辞めてワケのわからないリーグのHCになって、大丈夫ですか」と聞いたら「大丈夫です。僕にやらせてください」。「そこまで言うのでしたら、ぜひお願いします」と。それで決まりました。そのとき天日さんに「アシスタントコーチは僕に選ばせてもらっていいですか」と言われて、それが比嘉靖さんだったんですね。僕はバスケのことはわからないので、天日さんに託しているからお任せしました。それで後日、比嘉さんと面談をして「天日さんに言われたら光栄なので、僕もやります」と、こちらも即答してもらいました。

 

──1年目のチーム作りは、基本的に天日さんら現場にお任せしたんですよね


もともと大阪ディノニクスは日本リーグでも大活躍された、塚本清彦さんという方が立ち上げたんです。その人からチームを受け継いだので、引き継ぐ際にドラフトで指名する選手も外国籍選手も全部決まっていたんですよ。それでドラフトの前日に塚本さんと僕と天日さんで、明日のドラフトは1位指名は波多野(和也)で、あとはこの選手と決めて、夜の10時半くらいに解散してホテルの部屋で寝ていました。そうしたら、夜中の2時半に電話が鳴ったんです。

 

──なにか、緊急事態が起こったのですか


電話に出ると「天日です。社長、今から部屋に行っていいですか。ちょっとお話があるんです」と。それで部屋に来た天日さんは「さっき、こういうチーム編成で決めるとなりましたが、僕はこのチームの最初のHCなので、僕に選ばせてください」とチャレンジしてきたんです。ということは塚本さんに全部キャンセルして、これまでの話をなしにすると言わないといけない。それも大変だし、今さらとも思ったのですが、そういう思いを大切にしようと了承しました。塚本さんには本当に申し訳ないと、頭を下げました。ドラフト1位は波多野で変わらずでしたが、城宝(匡史)らは最初のリストに入っていなくて、天日さんが選んだんです。外国籍選手も全部リセットして選び直して、リン・ワシントンやマット・ロティック、デイビット・パルマーも天日さんが獲得してきました。

 

──1季目のチーム編成には、そんな裏側があったのですね


そのなかでも、実はジェフ・ニュートンは獲得するつもりはなく、別の身長2mの選手が来る予定だったんです。ただ契約の直前に、確かおばあさんが亡くなったのかな。それがショックで地元を離れたくないと言って、日本に来れなくなったんです。エージェントから彼の代わりにと出してもらったのが、ジェフでした。アメリカまで見に行ってどんな選手か確認する時間もなかったので、ジェフのプレーをビデオでチェックしていたんです。そうしたらリンが「こいつ、オレの後輩だ」って。それでリンにも話を聞いたりして、獲得を決めました。

 

──その一方でフロントの組織作りは、どう進められたのですか


フロントスタッフはほとんどというか、ほぼすべて人からの紹介でしたね。バスケットに通じている人、スポーツビジネスに通じている人、ただのバスケットが好きな人をどんどん集めた感じでしたね。

 

──まだチームの形もなく、当時はバスケの人気もそれほどではなかったでしたから、スポンサー営業なども大変だったでしょう


めちゃめちゃ大変でしたね。ヒューマンとのお付き合いがあるところから入っていきましたし、飛び込みもしたりしました。初年度はヒューマンのバックアップがあって、補填してもらったとはいえ、本当になにもないところからやりましたね。当時は若いから荒かったかもしれませんが、すごい勢いとエネルギーがありました。みんな気がついたら徹夜していたみたいなこともありましたが、そういうことも全然平気でした。このチームを優勝させようという思いが強くて、なんの根拠もないけど初代チャンピオンは我々だと言っていましたね。

 

──そうこうしているうちに開幕が近づき、開幕戦の前にプレシーズンゲームを開催しましたね


開幕戦の前はホンマにお客さんが入るのかどうか、ちゃんとプロの興行を行えるのか。不安が多かったんですよね。それでリーグが開幕する11月4日のちょうど1ヶ月前の10月4日でしたかね、なみはやドームでプレシーズンゲームをやったんです。我々の練習なので無料招待にしたのですが、6000人くらいの申し込みがありました。対戦相手はさいたまブロンコスで、経費節減もあったので試合当日に来てもらうことにしました。試合は19時開始だから普通なら全然間に合うのですが、思わぬトラブルが起こったんです。

 

──そのトラブルとは?


あの日は雨で関ヶ原で事故があって、渋滞が発生したんです。ブロンコスさんは17時には到着してアップしているはずなのに、その時間はまだ滋賀にいた。結果的に19時開始予定でしたが19時半にチームが到着して、アップなしで出てもらいました。少々のお客さんは待ち切れずに帰られたりと、そういう経験も勉強になりました。そのプレシーズンゲームには6000人くらいのお客さんが来たから、これはいけるなと思ったんです。だけど1ヶ月先の開幕戦のチケットは全然売れていない。エラいこっちゃとなって、みんなで手売りしたりしました(笑)。

 

──スタッフの努力もあって、開幕戦は約4000人の観客が集まりました


ご招待も含めて4000人くらいの方に来ていただけましたが、なにぶんハコが大きいんですよね。なみはやドームのメインを埋めるには、まだまだでした。とはいえ実際にお客さんで埋まった会場を見ると感慨深いものがあって、それも最高でしたね。試合は初戦に敗れて、2戦目に初勝利しました。あらゆることが自分たちの手作りで、会場の片付けもしていたので、僕もやっていました。個人的に嬉しかったのは、11月5日の大分ヒートデビルズとの第2戦で初勝利をあげて、試合後にチームマネージャーに呼ばれてロッカールーム行ったんです。そこにはチームの全員が揃っていて、初勝利のボールは社長にと手渡してもらいました。このときことは、今も鮮明に覚えています。

 

──1年目から優勝を実現させて、有明コロシアムのコートでそれを味わいました。そのときに、どんな思いが湧いてきましたか


胴上げまでしてもらって、感動でしたね。今まで仕事をしてきて、抱き合って喜べるようなことはなかったですから。プロスポーツのゴールがそこだとしたら、1年目から優勝を味わえたのは本当に最高でしたね。

 

──なにも形がないところから始めて、当時の上原さんは社長として、どんなことに重きを置いて組織運営をされていましたか


チームもそうですし、フロントもひとつになる。コミュニケーション力を含めて、同じベクトルに持っていくこと。今もそうですが、それがいちばん大事ですよね。当時はリン・ワシントンやマット・ロティックを見て、本当のプロ意識を感じました。コートの上でケンカしているけど、コートを離れたらお互いにコミュニケーションが取れる仲間なんです。フロントもお互いがリスペクトし合う関係になることが大事だと思いましたし、そのことにはすごく気をつけましたね。

 

──社長は通算5シーズン務められました?


5シーズン目の、ファイナルズの前でしたね。ヒューマンの事業年度が3月なので、シーズンの途中でしたが3月末での退任になりました。

 

──その間、チームはもちろん、クラブとしても成長していった手応えや実感はありましたか


これは戦略上の問題ですが僕としては3年目にやった、大阪市中央体育館や大阪府立体育会館、なみはやドームなどの5000~6000人規模の会場で興行を続けるのは厳しいと考えていました。なので4、5年目は岸和田や守口などの2000人ぐらいの会場を満杯にして、そこから大きな会場に観客を集める戦略を立てたんです。会長からは「せっかく大きいところでやったのに、なんで小さい会場でやるねん」みたいな話もあって、かなりやり合いました。だけど僕はあえて中小規模の会場にして、エヴェッサのチケットが取れないという状況を作ろうと考えたんです。そうしたことで、前売りの段階からチケットの売り行きが上がりました。その経験から、プロスポーツビジネスはこのハコに何人を集めたというよりも、チケットが取れないなどといった価値を提供するべきだと思ったんです。動員数では後退しているように見えるのですが、3連覇して4連覇に向かうチームとクラブの価値を高めるために、そちらの方向に舵を切ったんです。

 

──集客に苦労される時期もありました


ありましたね。それはもう、当時に会場にしていたハコが大きかったので。5000~6000人をすべて有料チケットで集めるというのは、当初からしんどかった。でも観客席を埋めるために、無策で無料のチケットをばらまくのはやめよう。必ず、0から1になるようにしようとしていました。最初に見るきっかけを得てもらうのはなかなか難しいので、そのために招待をして来てもらう。そういう戦略を持ってやったんです。それでいちばん多いときは、3連覇のときに大阪市中央体育館に7800人のお客さんが来ました。あのときは朝潮橋駅まで、屋台がずらっと並んでいましたね。

 

──当時はbjリーグと日本バスケットボール協会が、断絶状態でした


僕らもJBLから脱退した新潟がいるbjリーグのチームというような、レッテルを貼られていましたね。ミニバスの指導に行って、そこで関係者の方に「JBLから、これが来てるわ」って見せられた紙に「bjリーグと関わるな」と書かれていたんです。でも大阪の人はすごく温かいので、「こんなことがあっても、応援したる」と言っていただけて、それは本当にありがたかったですね。

 

──上原さんが社長をされていた5年間で、フロントの危機一髪みたいな時期はありましたか


毎年ありましたね(笑)。これは僕の反省点でもあるのですが、選手はプロで1年契約。来年も契約できるか、わからない。だからフロントスタッフにも、1年契約で同じものを求めました。成果が出ない者は辞めてもらう。そういうことをしていて、人を育てる意識はなかったですね。でもフロントはノウハウの蓄積で、年月を費やして作り上げるものがある。自分の考え方を軌道修正するべきだと思うようになったのは、退任するころでした。

 

──その経験から、なにを学びましたか


強いフロントがあるからお金を生む仕組みがあり、だからチームが強くなる。その理論が、当時の僕はわからなかったんです。天日さんのおかげで強いチームがあったから当たり前でしたが、実際はその逆だったんですね。エヴェッサを辞めてから、それをすごく学びました。フロントが強固な組織であり、ガバナンスやコンプライアンス含めて、まずはそれを優先的に作らないと強いチームが生まれない。今はそれを強く思いますね。

 

──3連覇して以降の4季目、5季目は惰性ではないですが、チームにもスタッフにも置かれている立場に慣れてしまったのか、最初の勢いが少しぼやけてきた時期かなと感じていました


そうですね。

 

──フロントの立場で、当時はそういう空気感のようなものを感じていましたか


ありましたね。まずひとつは、フロントの人材が育成できていなかったことがあると思います。3シーズンやってきてフロントにいろんなノウハウが蓄積されてきて、前年踏襲のようなことが増えてきてしまいました。あのころは我々がもっとも大事にしていたエンターテイメントの部分で、毎年新しいことをやっていこうという姿勢が少し薄れつつあったのではないかと思います。そこも今振り返れば、反省すべき点ですね。

 

──社長を経験して厳しかったのは、どんなことですか


僕はサラリーマンから社長になったので、辞めるという社員がいたら「なんでや、頑張れよ」と肩を叩いて飲みに行っているタイプだったんです。だけど選手をカットするのは、僕から辞めてくれという場面。社長をやっていて、これほど辛いものはなかった。これは僕には無理やと思ったときがあるほど、シンドかったです。といって人任せにできることではないので、2年目からは人間的にはつながるけど、そこまで感情移入しないようにしようと努力しましたね。そうしないと精神のバランスが、おかしくなりそうだったんですよ。

 

──ゼロから立ち上げに携わった大阪エヴェッサは、今後どういうクラブになっていってほしいと思われますか


チームはすごく強いけど、やっていることはエンターテイメントで、その根っこは大阪のベタベタ。七福神のひとりで、商売の神様である戎様の愛称“えべっさん”から着想したチーム名もそう。今は当たり前になっていますが、ハリセンを応援グッズにしたのも、実はエヴェッサが初めてなんです。ハリセンをネタの定番にしていたチャンバラトリオさんに、使用の許可をいただきにに行きました。当時はリーグの理事会に行っても「大阪はまた、面白いことをやり始めたな」という雰囲気だったんです。

 

──そうやって、枠組みから外れた新しいことを生み出すのがエヴェッサらしさですね


はい。僕としてはエンターテイメントを含めて、つねに新しいことにチャレンジするチームであってほしい。チームもフロントも、ファンのみなさんのことが大好きなんですよ。だからファンの方々とコミュニケーションを図って、ともにクラブを作っていく関係であってほしい。そうして大阪らしい、義理人情を大事にしたクラブであってもらいたいなと思いますね。