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2005-06
エヴェッサの歴史の始まり 初年度に見事、V1を達成する




2005年11月5日。日本初のプロバスケットボールリーグ、bjリーグが開幕した。大阪エヴェッサはホームのなみはやドーム(メインアリーナ)に大分ヒートデビルズを迎え、4190人の観衆の前で初陣を迎えるも、試合は95-100で敗戦。歴史的なプロリーグ開幕戦を白星で飾ることはできなかったが、翌日の第2戦は87ー70で記念すべき初勝利をあげた。

大阪エヴェッサの歴史は、こうして幕を開けた。

しかし当初は大阪からbjリーグに参入するのはエヴェッサではく、大阪ディノニクスというチームで進んでいた。だが諸事情から、ディノニクスが参戦を断念。それでもリーグ側は、日本第2の都市である大阪にチームがほしい。ちょうどそのころ、ヒューマンアカデミーはバスケットボールカレッジを立ち上げようとしていて、その責任者であった上原光徳にリーグから参戦の話が持ちかけられる。それは2005年の2月のことで、開幕まで残された時間は1年を切っている。差し迫った状況下でも上原はプロバスケの可能性を信じ、いぶかしがる周囲を説得してまわった。そしてリーグの打診があってからわずか1ヶ月のあいだに参入を決め、上原は初代社長に就任した。

チームという入れ物を作ることは決まったが、選手やコーチ、スタッフなど、中身は空っぽの状態。立ち上がりが遅かったゆえになにをするにしても、とにかく時間がない。そんな状況でまず着手したのは、ヘッドコーチ(HC)の選定。上原が親交のある高校の校長先生を頼り、紹介されたのが天日謙作だった。上原は当然、プロのバスケットボールチームを運営したことはなく、HCの善し悪しを判断する材料も持っていない。それでも天日と初めて対面して、この人だと決めた。

 天日は大阪府立羽曳野高から日本大に進学し、3年次には全日本大学バスケットボール選手権大会(通称インカレ)で優勝を経験。卒業後の1989年に実業団の松下電器に進んで日本リーグ、天皇杯(通称オールジャパン)でそれぞれ2度の優勝に貢献した。2001年に現役を退いて松下電器のアシスタントコーチ(AC)に、2003年にはHCに昇格。2005年限りでその座を降りて、社業に専念していた。そんな時期に、上原との出会いがあった。

 上原が「この人だと」決めた理由。それは天日が大企業を辞めても、エヴェッサに来るという熱意に尽きた。それが間違いでなかったことは、のちの歴史が証明している。

 5月になって運営会社の設立とチーム名を発表して、大阪エヴェッサの名が公になった。チーム名の由来は、古くから大阪の人々に親しまれてきた七福神のひとりであり、商売繁盛の神様でもある「戎様」に由来する。大阪では「戎様」を親しみを込め、「えべっさん」と呼びことから、エヴェッサとなったのだ。

6月2日に本町にあるハードロックカフェ大阪で、リーグコミッショナーの河内敏光が参列してのチーム発足の記者会見を実施。ここで上原は天日HC、比嘉靖ACのコーチ陣を発表した。以下はその際の上原社長、天日HC、比嘉ACのコメントである。

「bjリーグのほか5チームが続々とヘッドコーチを発表するなか、ようやく我々大阪エヴェッサがプロチームを誕生させ、ヘッドコーチを発表することができました。3月からの3ヶ月間ですべての計画をここまで練り上げるなかで、バスケットボールが本当にビジネスとして成立するのかという疑問を持ちながら取り組んでまいりました。競技的な視点だけではなく、大阪の人に愛される、また、大阪の街を活気付ける存在でありたいと考えております。エヴェッサのバスケットボールは家族、カップルで楽しむイベント、大阪の街が沸き立つお祭り、音と照明でショウアップされたスポーツエンタテインメントであります。初年度の運営予算は、約3億円を考えており、観客動員数は約5万人を目標にしています。ブースター(ファン)、スポンサー、株主のみなさまに感謝の気持ちを持ち続ける大阪エヴェッサを目指します」(上原社長)

「大阪エヴェッサのヘッドコーチとして仕事ができることを、光栄に思います。そして自分自身、非常にエキサイトしております。バスケットボール界を盛り上げる新しい段階へ進む、素晴らしい仕事になると確信しております。チーム作りでは『走る、大阪!大阪は走る!』これを標榜して参ります。トライアウトでは、大阪出身の選手を中心に良い選手がたくさんいましたので、マネジメントチームと協力して獲得し、しっかり育てていきたいと思います」(天日HC)

「上原社長の熱心なお誘いを受けまして、一度の人生ですから、夢を追いかけてやろうと決意し、大阪エヴェッサのアシスタントコーチを引き受けました。天日ヘッドコーチ同様、『走るチーム大阪』として、バスケットのフルコートを駆け抜けるようにしっかりとやっていきたいです。また、天日ヘッドコーチと選手とのパイプ役としてしっかりアシストし『大阪にえらいチームができたな』といわれるように、精一杯がんばります」(比嘉AC)
チームの骨子になる選手の獲得も、同時進行で進められた。6月6日に行われたドラフトで波多野和也、中村友也、石橋晴行、太田和利を指名。7月には天日HCが渡米して現地でトライアウトを開催し、マット・ロティック、ジェフ・ニュートン、デイビッド・パルマーを発掘する。さらに2000-04に新潟アルビレックスB.B.に在籍して日本リーグ連覇に貢献し、エヴェッサではのちにジェネラル(=将軍)との愛称が付けられるほどの中心選手になるリン・ワシントンの獲得にも成功。そのほかドラフト外で宍戸治一、田村大輔らを迎え入れ、初年度を戦うロスターを揃えた。

 開幕1ヶ月前の10月5日には開幕戦の舞台となる、なみはやドーム(メインアリーナ)に埼玉ブロンコスを迎えてプレシーズンゲームを実施。試合は79ー66で勝利し、入場料は無料としたが5042人の観客が集まった。当時のスポーツ観戦における応援グッズはV字に分かれていて叩いて音を出すことも、そこに口を寄せて声を拡大させることもできる“Vメガホン”や、空気を入れて膨らませた棒状のふたつの風船を叩くことで音を出す“チアスティック”が定番だった。

 エヴェッサは新たにスポーツエンタテイメントに参入するにあたって、定番をそのまま受け入れるのを善しとはせず、応援グッズにも大阪ならではの独自性にこだわって模索した。そうして辿り着いたのが、“ハリセン”である。ハリセンとは紙を折り曲げて扇状に成形し、それを叩くと破裂音のように“パンッ!”と小気味の良い音が出る小道具。大阪のベテラン芸人であるチャンバラトリオが舞台で用いるキーアイテムで、大阪人ならば誰もが知るもの。応援グッズにハリセンを使用するにあたり、許可を得るためにチャンバラトリオのもとを訪れる様子を記者に公開することでメディアの注目を集める、広報の工夫と努力もあった。このプレシーズンゲームでも場内の演出に合わせてハリセンを叩く音が鳴り響き、新たなスポーツエンタテイメントの萌芽を予感させていた。

その後、バスケットボールの試合会場では大阪だけではなく、各地でハリセンが応援グッズとして用いられるようになっている。

開幕戦を1勝1敗で終えたのに続き、次節もホームで開催された11月19・20日の新潟アルビレックスB.B.戦も1勝1敗。新リーグ初年度であるがゆえ、開幕当初はどのチームも手探りの状態だった。そんななかで、いち早く新リーグの波をつかまえたのがエヴェッサ。新潟との第2戦に勝利したところから7連勝を達成する。激しく相手を追いつめるディフェンスを仕掛け、ボールを奪えばすぐさま攻撃に転じる。天日HCが掲げてきた“走るバスケ”が、像を結んできたゆえに得られた結果だった。

とはいえ、つねに盤石の勝利だったわけではない。2月3日にホームの東大阪アリーナで行った仙台89ERS戦は、薄氷を踏みながらの勝利だった。試合は2度のオーバータイムに突入する接戦で、決勝点になったのは残り0分29秒でロティックが決めた3Pシュート。シーズン中盤でのこの劇的な勝利は、最後まで諦めない姿勢を貫くことをあらためてチームに植え付け、メンバーの結束をより強くするものだった。

1月14日の大分戦から始まった連勝は、3月19日の大分戦までで18に拡大。レギュラーシーズンをあと1ヶ月残しながら、ファイナル進出はほぼ間違いない状況を作り上げた。その後の終盤はやや調子を落とし、4節連続で1勝1敗で終えたがファイナル進出は揺るがない。

4月16日に新潟でレギュラーシーズン最終戦を終え、約2週間後の4月29日から有明コロシアムでプレーオフが幕を開ける。bjリーグは以降も最終決戦を同地で開催し、春に有明に行くことが各クラブの大目標となる聖地になった。

有明で開催されるセミファイナル、ファイナルはともに、bjリーグの歴史を通じて1戦のみの一発勝負。初年度にエヴェッサが、初戦であるセミファイナルで相対したのはレギュラーシーズン18勝22敗で4位の仙台。31勝9敗と、圧倒的な結果を残してレギュラーシーズン1位のエヴェッサにとっては勝って当たり前、負ければすべてを失う難しい一戦だった。

試合は前半終了時に11点リードと先行し、第4Q序盤で15点リードと勝利に大きく近づく。しかしそこから仙台の逆襲にあい、攻めながらも失点を止められない。最終盤に3Pシュートを決められれば追い付かれる展開になったが、最後を守り抜いて勝ち切り、ファイナルに駒を進めた。

翌日、4月30日はbjリーグ初代王者が決する大一番。対するのはエヴェッサと、バスケのプロ化の先頭に立っていた新潟。第1Qこそ14ー11の僅差で展開したが、第2Qでエヴェッサがゲームの流れを掌握した。パルマーが連続で3Pシュートを沈めるなどで相手を突き放し、前半終了時に10点のリードを築く。しかし最終盤はともに得点が奪えない時間が続き、第4Qでエヴェッサのリードは4点にまで縮小。苦しい時間帯が続いたが、波多野がゴール下でオフェンスリバウンドを獲得するなどで相手に流れを渡さす、最終的に74ー64で勝利。見事、bjリーグの初代王者に輝いた。

バスケの世界では、シーズン最後に勝利を手にしたチームの選手が順に、ゴールネットをハサミで切っていく“ネットカット”というセレモニーがある。このbjリーグのプレーオフでもそれが行われたが、当時の日本にはその文化がなく、ハサミを手渡された選手はだれもがどうしていいのか戸惑いを隠せない。最後のネットをカットした波多野も、「これでいいのか」と困惑した表情で周囲を伺っていた。日本のプロバスケの草創期は、そんな様相だったのである。